昨晩、CXの「スタ☆メン」で、大阪のおばちゃんを特集していた。

誇張だと言われているが、服装の趣味については私の会社の同僚も既に20代の頃から豹柄なので間違えないと思う。

「いや、豹の"顔"だ」と田中さんは言っていたが出てた人は確かに全員豹の顔の服を着ていた。

私の同僚もあと数年で顔を着そうだが、今東京地区に住んでいるから関東の土地にその養分は入っていないのでだいぶ薄まっているだろうから、顔までは行かない事を願いたい。

おばちゃんは自分で言っていた。

「更年期過ぎた頃から恥ずかしいと思わなくなっちゃって、すっかりおばちゃんやね。」

「これ着ていると、闘争心が沸く。暗い世の中だから明るくね。」

・・・

私もだいぶおばちゃんの年に迫っているのだが、やはりこののりには馴染めない。

関東であっても、豹柄こそ着ないものの、大阪で言う「あめちゃん」(飴)を渡して大笑いしてコミュニケーションしている場面は良く見かけます。

飴自体食べない私はそのコミュニティにどう考えても入れそうにない。いや、入りたくないっす。


どうして、すっかりおばちゃんになってしまったのか?

たぶんこれは、本田健さんの「ユダヤ人大富豪の教え」にも書かれている「ミリオネア・メンタリティと同じ」だと思う。

「こうありたい」と思う姿のように振舞っていると、そのイメージに近づけるようなものを引き寄せられる、という話。


大阪のおばちゃんは、ああなりたいとは思っていなかったかも知れないが、たぶん「こういう自分でありたい」という強いものが無かったんだろうと思う。


私は同じ家に育ったにもかかわらず、親・妹・弟、それぞれ違う人間になっている。

特にお金の面は顕著。

弟はお金にがめつく、ギャンブルまでやるから、それなりに金は持っている。

妹は「しかたない」という言葉を頻繁に使い、本来は自分の希望でないが、

現実と照らし合わせてやむを得ず妥協している人生になっていて、お金はそう潤沢ではない。

で、私はと言うと、お金自体を中心にしていないし、浪費家なので、弟ほどは持っていない。

しかし、「こういうかっこいい生活をしたい」とか「こういう人間にはなりたくない」いう子供頃から一貫したイメージがあり、

そのせいか、そのイメージを保つだけの金銭は手にしていて親よりかなり裕福な人生になっている。

お金は労働の対価以外にもたなぼた的に手にすることもある。


私は子供の頃恐れていた今の年齢の女性のようには、見た目はともかく内面はなっていないと思う。

いや、見た目も、肉体の老化はともかく服飾はなっていない。


40過ぎると男は自分の顔に責任を持てとか、顔に人生が出ると言うが、それは本当だと思う。

私も、ゆらぎない「なりたくないイメージ」からは確実に離れてた私になっていると思う。